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                        部屋と「お母さん」と 絵

 テーブルの上に何気なく置かれたものや、目の前に座って何かしている子供に、ふと「目をとめる」ことがある。取りあえず手近にあるカメラで写真を撮ることもあれば、紙にデッサンをすることもある。撮った写真を見ながら紙に描いたものや、デッサンしたものを、更に何枚か紙に描いてからキャンバスに絵の具で描く作業に入る、というごく普通のスタイルで制作をしている。目に見える物を正確に描くというよりは、自分が「目をとめた」理由を探りながら自分なりの解釈で消化し、絵の具に置き換えていくといった作業だ。小手先の技術に頼らない、人と違うことや新しさを求めない、絵でストーリーを語らない、重くならず軽く、厚いより薄く、重心は下より上、足すより削る、絵の具で画面を窒息させない、透明感を持たせる、小さくまとめない、ハナにつく絵にならないように気をつける、絵の具をもったいないと思わないようにする、自分に正直に描く、など諸々の事柄を心に留めておいて制作に入る。ところが、いざ描き始めると毎回わからなくなって悪戦苦闘をし、行き詰まって投げ出したくなる時もあれば、自分が知らない間にさっさと出来上がってしまった、というようなこともあり、思うような手順で描き進んだことは一度もない。 新しいキャンバスの前に座るたびに自信をなくし、暗中模索で進めながら苦しい思いをするが、描くことを辛いとは感じないし、絵で悩むこと自体、贅沢なことだと思っている。結果、なんとかして納得のいく作品に仕上がった時の、その充足感は他では得ることができない。

                

 

 自分を取り巻く景色は、作品に少なからず影響すると考えているので、生活の中にもなるべく気に入ったものを配置したいと思っている。しかし現実は、スペースや予算の関係で、なかなかそう思うようにはいかない。だからと言ってホームセンターなどで売っているプラスチック製のものや、プリントペーパーを貼ったような大量生産品ばかりを身の回りに置いていたら、安っぽい外観に感性を侵されてしまうのではないだろうか。初めはうっとうしく感じる物も、次第にその存在に目が慣れてしまい、しまいには全く気にならなくなっていることに気がついて、慌てて片付けることがある。

 私は古い椅子が好きで、よく絵に描く。古い椅子は手頃な価格で手に入れることができ、新しいものを買うより環境にも良い。何より椅子は、誰も座っていなくても人間の存在感がそこにあり、古いものほどに「うちに来る前は、どんな家で、どんな人が座っていたのだろう」などと想いを馳せることができて楽しい。ただ、いつの間にか我が家の狭いリビングは、いつも誰かしらが必要のない椅子に蹴つまずきながら生活をしなければならなくなってしまい、少し困っている。部屋がごちゃごちゃしてくると、描く絵もごちゃごちゃしてくる。

 

 身の回りの景観が制作に影響するのは、これは私だけのことではないように思う。先人の画家達のアトリエを、図録やインターネットなどで見ることができるが、部屋の様子が、まるでその画家の絵そのままのように見えてくるのが、面白いと思っている。セザンヌのアトリエは、敬虔で実直で嘘をつかない人柄が出ているようだし、マティスの部屋は、美しい曲線の装飾が「金の額縁」に入るために鎮座して待ち構えている。ベーコンの暗いアトリエは、汚らしく散らかって叫んでいるし、モランディの部屋は、マットなボトルの数々が質素な壁と床とに既に調和している。サイ・トォンブリーの床の赤いタイルの連続は、何がしか彼の作品に影響を及ぼしたのではないだろうか。デ・クーニングが成功して手に入れた白く広々としたスタジオで、カラフルな絵の具を撒き散らしても、そこに以前の作品とは違う無機質さが見えはしないだろうか。

 目に入る景色が人に作用することに関しては、家の外についても同じことではないだろうか。ヨーロッパの古い街並みを歩いて「日本は負けている」と思うことがある。戦後、日本らしさを捨て必死の欧米化で、結果チープな家屋ばかり立て、電線が空を走る町並みや、緑が減り、汚れた環境はそこに生まれ育つ現代のアーティストに少なからず悪影響を及ぼしはしなかっただろうか。目に入るあらゆるものは知らず知らずのうちに人間の記憶に刻まれて感性を左右していくものだと思う。

 

 私には子供が二人いる。気がかりなことの一つに、人間が成長していく過程において多大な影響を及ぼしているように見える、娯楽の世界がある。昨今の、子供が見るような本やアニメ、ゲームなどは、私の世代には理解し難いものが多く、情報が溢れ過ぎていて、親として気に入らなくても防ぎようがないような状態だ。それでもその中には「好き嫌い」以前に「良し悪し」があるということを、子供達にも意識させたいと思っている。

 我が家では何かに付けて、勝手な「お母さん判定」が下される。絵本なら「はらぺこあおむし」よりジョン・バーニンガム。トトロより、ムーミンの映画の方が、芸術点が上。ミッキーよりスヌーピー。キティよりミッフィー。妖怪ウォッチより鬼太郎。最近では「びじゅチューン」の井上涼と「あはれ!名作くん」が高得点を収め、スポンジ・ボブは常に上位にいる。子供は面白がって「これは?合格?」と聞いてくる。「お母さん判定」は、実態はほとんど好みの問題で、全く間違っているかもしれないが、構わないと思っている。なんといっても私は「お母さん」だし、子供には流行に惑わされないでジャッジする姿勢を常に持って欲しいと願っている。

 

 私の作品は、家族に囲まれた生活の、取るに足らない一場面、一場面がそのまま絵の題材になっている。絵を描くスタジオなどないから、時間も空間も生活の隙間で制作している。いつかは、何か壮大なコンセプトを持って、人間の本質を哲学的に探求し、巨大なキャンバスに絵の具を思いきりぶつけてみたい、といった憧れもあるが、瑣末な生活の色々に追われているせいか、身近で小さな物にしか題材を見つけられずにいる。少々残念な気もするが、私はこれでいいのだ、という気もする。

 

 私は根が怠け者だ。休みの日には布団からなかなか出られないし、家事と仕事の合間にゴロゴロしながらネット配信ドラマを見たり、アマゾンで長々と買い物なんかをしているうちに、ふと、「こうして一生が終わってしまうのは、割と簡単なのではないだろうか」と、想像する。

 一方で、人生の最後の瞬間に「ああ、もっとTVドラマを見たかった」とも「もっと昼寝をしたかった」とも思わないだろう、と想像する。そうして「そうそう、描かなくては・・」と、いそいそと画架の前に座るのだ。

 絵を描きたいと思う衝動は色々だが、先人の素晴らしい作品に触れた時には、特にモチベーションが上がる。文章でも音楽でも映像でも表現できない、素晴らしい絵画だけが持つ、見る人の心を震わせる「あの感じ」を形容する言葉を私は知らないが、私が目指しているのは全く曖昧な、だだ「それ」一つだ。素晴らしい絵画は、時代を超え、常に現在進行形で古びることなく、作品の前に立つ人に、超崇高なコミュニケーション能力を持って語りかけてくる。せわしない家事の合間に、小さな生活の一場面を切り取ることしかできなくても、そんな力を持つ絵を、一生の間に、私も何とかして描いてみたいのだ。

 

                                                                 2017年11月